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2019/12/09

公暁悲劇の道 四辻

天圓、大仏葛原岡、祇園。鎌倉のハイキングコースはどこも通行不可。倒木、コースの陥落などなど人力を駆使して懸命の修復が続く。復旧は来年の春になるのか、夏になるのか……。

きのう建長寺の奥、回春院を抜けて「公暁悲劇の道、四辻」へ向かう山道を探索してきた。「公暁悲劇の道」というのは鶴岡八幡宮の大銀杏に身を潜め、鎌倉三代将軍源実朝を暗殺した甥の公暁が山越えをして逃げのびる途中、追っ手につかまった山中の四辻。

建長寺山門をくぐり、仏殿の地蔵菩薩にお参りし、法堂に向かったら三十人ほどのお坊様が厳かに法要を営んでいた。そばにいた雲水に尋ねたら12月8日はお釈迦様が悟りを開いた日で、これは成道会(じょうどうえ)の法要です、と。
半僧坊に向かう途中右に折れ、回春院本堂前にひろがる大覚池をぐるりと回りさらに奥深く進んで山道に入りこんだ。ここも進入禁止なのだが、注意に注意を重ねて進むことにした。覚悟はしていたが山道には何本もの大木が倒れて塞ぎ、ところどころ山道が陥落していて軽装ではとうてい通りぬけできないほどに荒れていた。復旧にはかなり時間がかかるだろう。
いつもの倍以上の時間をかけ、藪の生い茂っている四辻にたどり着いた。左に行くと朱垂木(しゅだるぎ)やぐら群を経由して天圓の十王岩付近へと上り、右は鶴岡八幡宮、西御門へと下る。きょうは天圓へ向かわず、西御門へと下りた。

山道から一歩踏み出すと、そこは西御門の住宅地なのだが、舗装されている道路はかなりの急斜面が下まで続く。不肖佐助庵、山道を歩いているときよりずーッとこわい思いをして途中に石段もおかれている舗装道路を下って帰途についた。

photostream :
建長寺
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公暁悲劇の道四辻へ
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2019/12/08

漱石と鎌倉

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という正岡子規が詠んだ有名な俳句があるのだが、これとそっくりな一句を子規終生の親友だった夏目漱石が詠んでいたことを最近になって知った。
「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」。
こないだ北鎌倉の東慶寺の門前をうろうろしてたら、石段下の目立たないところに石碑があって、ひまにあかせてその石碑をまじまじと眺めていたら、石碑に漱石の「初秋の一日」という随筆の一部が刻まれていて、そこに面白いことが書いてあった。
「……高い石段の上に萱葺の山門が見えた。Zは石段を上る前に、門前の稲田の縁に立って小便をした。自分も用心のため、すぐ彼の傍へ行って顰に倣った。……」
ン? Zォ? 顰に倣ったァ? 石碑の横にあった案内板を読んだら、Zというのは満鉄総裁の中村是公のこと、「顰に倣った」とは連れションのこと、と書いてあった。石碑は漱石と中村是公が連れションをした場所に建てられたらしい。
……なんだ、教科書に載るような偉い人もヤッパリ同じ事やってんじゃねーか、とちょっと笑ってしまった。
はなしを元に戻す。
じゃあどーして漱石が建長寺で、東慶寺なのかというと、悩みを抱えていた若い頃の漱石が円覚寺に滞在し、参禅したときの管長だった偉いお坊様が後に建長寺の管長も兼任して、管長を辞めた後東慶寺の住職になった、と。
どうでもよいことだが、建長寺の鐘楼の案内板には子規の句と漱石の句の関わりを誇らしげに書いてあるが、これはやめといたほうがよいだろう。国宝の名を貶める。

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東慶寺
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2011/04/10

木瓜の花

ボケの花、ですね。   − 建長寺 −

建長寺 仏像三体

丈六地蔵菩薩坐像 千手観音像 仏陀苦行像

建長寺山門 ( 7/1追記


− 7/1 追記 −
建長寺「三門」である、と指摘されましたが「山門」とも言います。実際に目にして、フレームにおさめたその時の自分の心のなかでは、やはり「山門」であると。ゆえに「建長寺山門」と記しました。